189. 成熟とは

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社会医療人の星

2019年も残り1週間となりました。

至るところで、今年の総括が行われています。

新聞、テレビでも様々な切り口の総括を目にします。

その多くは社会の複雑さと

それに上手く対処できない無力感と閉塞感が見え隠れしています。

環境問題はその典型でしょう。

全人類の生存に関わる最重要イシューでありながら、

その責任の所在が曖昧にされてしまい解決の糸口が見出せません。

COP25の不成功が如実に物語っています。

そんな中、多くの識者は

イノベーションが重要だと指摘します。

社会全体に漂うこの閉塞感を打開するのは、

イノベーションしかないというのです。

確かに、人類の歴史は発明、発見、創意工夫によって

外的足場を築き、営々と発展してきました。

しかしながら、今回の局面においては、

「それは違う」と私は考えます。

今、あらゆる分野で求められているのは

「成熟性」ではないかと思うのです。

イノベーションは、様々な情報、知識を集めて

それらを有機的に結合させた結果、創発的に生み出されるものです。

考えて、考えて、考え抜いた挙句に

新結合によって生まれる智慧です。

そこには、「出来ることは何でもやる」という志向があります。

拡大志向であり、渇望に近いマインドセットが求められます。

外発的アプローチとも言えるでしょう。

子供のような無邪気な心が求められたりします。

ただ、この志向性は

稚心(幼稚さ)にも通じることを押さえておくべきです。

一方、「成熟性」はその真逆です。

内発的アプローチであり、内に向かって充実させるという志向です。

平たく表現すれば、「出来るけど、やらない」という心の姿勢を伴います。

この「出来るけど、やらない」ことは案外難しく、

そこにはかなりの成熟さが必要になってきます。

人間には強力なエゴがあり、

そのエゴの叫びが、無意識下に走ってしまうからです。

多くの人は、自己の存在を最大限に誇示しようとします。

皆さんは、「自分はそんなことはない」と思うかもしれませんが、

それは自分の中に巧妙に潜むエゴに気づいていないだけです。

エゴを治めるには、相当に成熟した精神が必要なのです。

間違いありません。

エゴとの決別が必要です。

否、間違えました。

決別は無理でした。

(決別したつもりになることが怖いです。エゴは巧妙に身を隠しますから…)

エゴが見えていることが大切です。

「出来るけど、やらない」という境涯は

自身のエゴを冷静に見つめることが出来なければ、決して訪れません。

表現を変えれば、

自身のエゴを冷静に見つめることこそ、「成熟」そのものなのだと思います。

今、医学の世界では、ゲノム医療が花盛りです。

iPS細胞による再生医療にも注目が集まっています。

臓器移植にも応用されるでしょう。

所謂、イノベーションの世界であり、とても華やかに映ります。

医療者をはじめ、人々はそんな先進性の世界に目を奪われます。

こうした先進性の中にある当事者たちは、

よほど気を付けていないと無意識下のエゴに走ってしまい、

「進歩の罠」に陥ってしまう可能性があることを知っておくべきです。

「多くの人の命を救う」という美名のもとに巧妙なエゴが入り込み、

実際には、自己本位のエゴ・トリップに陥ってしまうことがあるのです。

私は、医療界全体が「進歩の罠」に陥ってしまうのではないかと心配でなりません。

(「進歩の罠」については、別の機会に詳しく述べさせていただきます。)

ゲノム医療やiPS細胞による再生医療などの華々しい技術革新が誕生した今こそ、

医療界には真の「成熟性」が求められているのだと思います。

「成熟とは何か?」を真剣に考えるべき時なのです。

そんな時、私の頭に浮かぶのは

650年も続いている能の世界です。

伝統芸能という括りだけでは収まらない真価が能にはあると私は感じています。

表現を極限まで削ぎ落としながら、真に大切なものを伝えていく世界は

成熟そのものです。

この「成熟」という点で歌舞伎とは一線を隔していると思います。

世阿弥の名著『風姿花伝』によれば

能の芸の深さは、

「長」と「かさ」によって決まると言います。

「長」とは、花であり先進性と解釈しています。

「かさ」は花を咲かせるための種であり、

日々の稽古や老練な巾のようなものでしょう。

両者が相まって、成熟性や豊かさが生み出されるのだと思います。

社会医療人の星

繰り返しになりますが、

医療に限らず多くの分野で、「成熟性」が求められているのだと思います。

能をはじめとする古き良きものには、少なからず「成熟」が備わっています。

そうしたものに学びながら、

私たちは「成熟というもの」を身に付けていかなければならないのだと思います。

2019年12月25日