193.『ソフィーの選択』映画論考

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社会医療人の星

今週は名画『ソフィーの選択』についての論考です。

1982年のアメリカ映画で、

主演のメリル・ストリーブはアカデミー主演女優賞に輝いています。

舞台はニューヨーク・ブルックリン、

恋人同士のソフィーとネイサン、

それに作家志望の青年スティンゴの3人による物語です。

ソフィーはアウシュビッツから生還した暗い過去を持つポーランド女性、

ネイサンはファイザー社勤務の生物学者を自称するユダヤ人(実は統合失調症)、

スティンゴは南部出身のアメリカ青年です。

この人物設定にまず注目しなければなりません。

ソフィーの選択

よくある三角関係の恋愛映画と思ったら大間違いです。

実際、私が最初にこの映画を観た際の感想は

戦争、特にナチスのユダヤ人迫害という悲劇に見舞われた

女性の悲劇を訴えた映画と思ってしまいました。

本作の主題はもっと深いところにあります。

(以下、映画のネタバレになってしまったら御免なさい)

世の中には、均等の選択肢があるにもかかわらず、

明らかに不幸になる方を選んでしまう人がいるものです。

「自分は幸せになってはいけない」という呪縛でもあるかのように

悪い方を選んでしまう人たちです。

それは、無意識に行われているように見えます。

映画の中のソフィーは、まさにそんな人です。

ソフィーは年下のスティンゴから

南部の田舎での平穏で幸せな家庭を築こうと求婚されます。

ピストルを持ったネイサンから逃げ出さざるを得なかった状況下で

二人は急接近します。

悲劇に見舞われ続けたソフィーにやっと幸せが訪れるのだと誰もが思うはずです。

しかし、翌朝、スティンゴに置手紙をして

ネイサンのもとに戻ります。

そして、二人で服毒自殺をしてしまいます。

ソフィーは、スティンゴの愛を一度は受け入れたのでしょう。

そして、やっと訪れる平穏な幸せに胸を弾ませたに違いありません。

しかし、そう思った瞬間に、

アウシュビッツでの究極の選択によってもたらされた心の刃が

剥き出しになったのだと思います。

それまで心に封印していた血の滴る刃です。

人生における出来事は、

時に人の運命を無意識下にコントロールしてしまいます。

人間は、

常に自己の欲求に忠実に楽しいことだけを求め行動する、

あるいは、経済学が設定するような経済合理性を徹底できる、

そんな浅はかで単純な存在ではありません。

映画鑑賞後、ふと浮かんだのが

夏目漱石の『こころ』です。

夏目漱石の『こころ』

先生とKと下宿先の娘さんとの三角関係が映画と類似していますが、

それ以上に、

最終的に自殺した先生の心の中の闇が

ソフィーのそれと一致しているように私には思えるのです。

先生も娘さんと幸せな結婚生活を続けることが出来たはずです。

しかし、敢えてそうはしませんでした。

先生の心の闇は、Kの自殺に端を発することは間違いないでしょう。

しかし、Kの自殺は失恋が主因ではないでしょうし、

先生がKの自殺から負わされた闇も

Kを出し抜いて娘さんと結婚することになったからではないと思います。

もっと根源的な、

人間が人間を信ずる拠り所のようなものが

全くに揺るがされてしまったからなのだと思っています。

ソフィーも運命に対する信頼みたいなものを

喪失してしまったような気がします。

(『こころ』を知らない人にはチンプンカンプンですね。

でも、これを機に是非読んでみて下さい。)

先生とソフィーに同じ匂いを感じてしまいます。

そして、私自身の中にもしっかりと感じます。

私も、どこか「幸せになってはいけない」という

無意識の感情があることを認めざるを得ません。

表面的には幸せを求めて生活しているのですが、

深い潜在意識ではそれにブレーキを掛けているようなのです。

何か、暗い話のように聞こえるかもしれませんが、全く違います。

とても希望的な話なのです。

というのは、

『ソフィーの選択』や『こころ』が教えている深い心の闇の存在が

今の私には、少なからず見えているからなのです。

となれば、

その闇から解放される日も近いような気がするのです。

それは、すべての人間に言えることなのだとも思います。

心の時代に相応しい闇への処し方、

すなわち成熟さを私たちは身に着けていくのでしょう。

2020年1月22日