114. 映画『最後のランナー』論考

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社会医療人の星

『炎のランナー』は(原題: Chariots of Fire)は1981年公開のイギリス映画で、

第54回アカデミー賞作品賞を受賞しています。

作曲賞に輝いたヴァンゲリスのテーマ曲を知る人も多いと思います。

二人の主人公のうちのエリック・リデルは、私の中の英雄です。

期待された男子100mでは予選が安息日の日曜日であったため、

出場を拒否します。

リデルの凄さは、信仰を最優先しながらも、

代わりの200mで銅メダル、

400mでは予想を覆して優勝してしまう点です。

天晴としか言いようがありません。

Eric Henry Liddell(1902-1945)

Eric Henry Liddell(1902-1945)

その後、彼はプロテスタントの宣教師として生まれ故郷の中国に渡ります。

『最後のランナー』は、その彼の最期までを綴った作品です。

香港、中国、アメリカの合作映画ですので、

イギリス映画の『炎のランナー』とは、やはりテイストが違います。

2016年の作品で、今頃になって日本公開ですから

興行的には前作には遠く及ばなかったのかもしれません。

映画の中では、日本軍が悪者として描かれている点も

日本公開が遅れた理由なのかもしれません。

2本の作品を通して思うのは、

リデルという人間の崇高さです。

日本語では、“矜持”や誇りとでも言うのでしょう。

ちなみに、私たち日本人は“矜持”をプライドと同様の意味で使っていますが、

アメリカ人に聞いたところ、プライドはエゴの延長上の悪い意味の言葉のようです。

少なくとも良い意味ではないようです。

注意して使いましょう。

“矜持”に話を戻しましょう。

和英辞典によると、self-worthdignityself-regard などと書かれています。

多くの映画のモチーフ、テーマがこの“矜持”を謳っているように思います。

あるいは、あらゆる映画やドラマを観る時、

あらゆる書物を読む際に、

私が無意識に“矜持”を探しているからなのかもしれません。

しかし、誰が何と言おうと

この世界には、“矜持”が存在していますし、

あらゆる人々の心の中に、“矜持”が存在していることを感じます。

果たして、それは何故なのか?

人類史の中で、私たちはいつ矜持の世界を獲得したのでしょう?

S.ミズンの指摘する5万年ほど前の「意識のビッグバン」

それより前であるとは考えにくいでしょう。

55.『心の先史時代』に学ぶ
ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)が、 われわれ現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)よりも 脳容積で上回って...

ここで大胆な仮説をご披露しましょう。

全くの私見ですが、“矜持”を持つようになったのは

贈与をし合うようになってからだと思うのです。

『贈与論』のマルセル・モースが教えてくれました。

贈与がもたらすもの、それは存在の名誉というものなのである

108. プレゼントと人類社会との意味深な関係 -モース『贈与論』からの創発
以前から、脳容積でも体力でも勝っていたネアンデルタール人が4万年前に滅んで、 劣者のわれわれホモ・サピエンスが生き残っているのが不思議...

上記では言及しきれませんでしたが、

ホモ・サピエンスが贈与をし

それを受け取ったホモ・サピエンスは

それを繰り返しながら

人類の歴史は、“矜持”に満ちた外的足場を形成し、

エリック・リデルという英雄を生むまでになったのだと思います。

“矜持”を感得するにはうってつけの映画ですが、

関東では有楽町スバル座1館だけの上映です。

私が観に行ったときには、観客は私を含め、たったの7人でした。

ジャパン・バッシングの映画と毛嫌いしないで

より多くの人に観ていただきたいです。

エリック・リデルの“矜持”が2本の映画には通底していると思います。

それは、映画という外的足場となって、私たちに差し出されています。

贈り物なのです。

その贈り物を受け取った時、

そこにはモースのいうところの義務が自然発生し、

私たちの中に“矜持”を生み出していくのです。

“矜持”は受け継がれ、さらなる発展をもたらすのです。

私は、そう信じています。

2018年7月25日