『炎のランナー』は(原題: Chariots of Fire)は1981年公開のイギリス映画で、
第54回アカデミー賞作品賞を受賞しています。
作曲賞に輝いたヴァンゲリスのテーマ曲を知る人も多いと思います。
二人の主人公のうちのエリック・リデルは、私の中の英雄です。
期待された男子100mでは予選が安息日の日曜日であったため、
出場を拒否します。
リデルの凄さは、信仰を最優先しながらも、
代わりの200mで銅メダル、
400mでは予想を覆して優勝してしまう点です。
天晴としか言いようがありません。
その後、彼はプロテスタントの宣教師として生まれ故郷の中国に渡ります。
『最後のランナー』は、その彼の最期までを綴った作品です。
香港、中国、アメリカの合作映画ですので、
イギリス映画の『炎のランナー』とは、やはりテイストが違います。
2016年の作品で、今頃になって日本公開ですから
興行的には前作には遠く及ばなかったのかもしれません。
映画の中では、日本軍が悪者として描かれている点も
日本公開が遅れた理由なのかもしれません。
2本の作品を通して思うのは、
リデルという人間の崇高さです。
日本語では、“矜持”や誇りとでも言うのでしょう。
ちなみに、私たち日本人は“矜持”をプライドと同様の意味で使っていますが、
アメリカ人に聞いたところ、プライドはエゴの延長上の悪い意味の言葉のようです。
少なくとも良い意味ではないようです。
注意して使いましょう。
“矜持”に話を戻しましょう。
和英辞典によると、self-worth、dignity、self-regard などと書かれています。
多くの映画のモチーフ、テーマがこの“矜持”を謳っているように思います。
あるいは、あらゆる映画やドラマを観る時、
あらゆる書物を読む際に、
私が無意識に“矜持”を探しているからなのかもしれません。
しかし、誰が何と言おうと
この世界には、“矜持”が存在していますし、
あらゆる人々の心の中に、“矜持”が存在していることを感じます。
果たして、それは何故なのか?
人類史の中で、私たちはいつ矜持の世界を獲得したのでしょう?
S.ミズンの指摘する5万年ほど前の「意識のビッグバン」
それより前であるとは考えにくいでしょう。
ここで大胆な仮説をご披露しましょう。
全くの私見ですが、“矜持”を持つようになったのは
贈与をし合うようになってからだと思うのです。
『贈与論』のマルセル・モースが教えてくれました。
「贈与がもたらすもの、それは存在の名誉というものなのである」
上記では言及しきれませんでしたが、
ホモ・サピエンスが贈与をし
それを受け取ったホモ・サピエンスは
それを繰り返しながら
人類の歴史は、“矜持”に満ちた外的足場を形成し、
エリック・リデルという英雄を生むまでになったのだと思います。
“矜持”を感得するにはうってつけの映画ですが、
関東では有楽町スバル座1館だけの上映です。
私が観に行ったときには、観客は私を含め、たったの7人でした。
ジャパン・バッシングの映画と毛嫌いしないで
より多くの人に観ていただきたいです。
エリック・リデルの“矜持”が2本の映画には通底していると思います。
それは、映画という外的足場となって、私たちに差し出されています。
贈り物なのです。
その贈り物を受け取った時、
そこにはモースのいうところの義務が自然発生し、
私たちの中に“矜持”を生み出していくのです。
“矜持”は受け継がれ、さらなる発展をもたらすのです。
私は、そう信じています。
2018年7月25日