『我と汝・対話』やマルティン・ブーバー(1878-1965)をご存知でしょうか?
医療界ではあまり知られていないかもしれません。
本書冒頭の「世界は人間のとる二つの態度で二つとなる」の表現が、
深い意味を以て響いてきます。
驚くべきことに、ブーバー作品のいくつかの書評を
故 日野原重明先生が書かれています。
ブーバーの思想は、代表的書名にもある通り「我と汝」に集約されます。
私たちの社会は、どうして争いが絶えないのでしょう?
人類歴史は少なくとも二千年の歴史を刻んできているというのに、
戦争が皆無となった日は一日とてありません。
世界中の人々が笑顔で語り合い、
固い友情と信頼で結ばれるようなそんな世界の実現は不可能なのでしょうか?
誰もがそのような世界の実現を望んでいるはずなのに、
どうしてそのような世界が到来していないのでしょう。
「そんな世界は永遠に訪れない。人類が争いから逃れられないのは宿命があるからだ。」
そんな声が聞こえてきます。
しかし、ブーバーはこう答えます。
「宿命がある、と思うから、宿命があるのだ……」と。
ブーバーはイスラエルの哲学者であり、
対話と関係性の哲学を打ち立て、イスラエル国家建設に関与し、
アラブとの和解に尽くした平和運動家でもありました。
世界中のあらゆる紛争が、
「我と汝」の関係性の間違いに起因するとブーバーは主張します。
世界は未だに紛争から解放されていないのですが、
この原因が外的要因によるのではなく、
実は人の心に根ざしていると指摘します。
東洋の思想、特に仏教に通底する考えと思います。
「我と汝」とは、要するに「私とあなた」の関係のことです。
そこには、対象を敬う謙虚さが感じられます。
そこには、初めからの和解があると思うのです。
一方、「我と汝」の対語としては、
「我とそれ」が挙げられます。
「我とそれ」の関係は、相手を利用する存在と見ています。
利用する道具と捉えているといっても良いかもしれません。
道具の価値は、機能と見ることが出来ます。
となると、相手を機能面から見ていることになります。
人間は世界を、自然を「それ」と見てしまいます。
支配の対象と捉えてしまうのです。
しかし、それは、どう考えても人間の思い上がりです。
科学は「我とそれ」の関係の上に成り立ってきた訳ですが、
それをすべての対象に敷衍してしまうと大変なことになってしまうのです。
現代社会では、その「我とそれ」の関係性が
社会や地域コミュニティのみならず、家族内でも起きています。
それらが蔓延ってしまった結果、
現代社会は多くの悲劇に苛まれてしまうのです。
「我とそれ」の関係性を「我と汝」の関係性に修復していかなければなりません。
それには、「対話」が重要なのだとブーバーは指摘します。
対話によって「我とそれ」から「我と汝」の関係を正しく構築していくならば、
やがて世界は平和を獲得していけるのだといいます。
私は、現代人が「我とそれ」から「我と汝」への転換を図る最適な場は
「いのちの場」にあるのだと思っています。
「いのちの場」とは、病院や介護施設のみならず、いのちのやり取りのあるすべての場です。
「いのちの場」での真摯な取り組みが
「我とそれ」から「我と汝」への転換を導くのだと信じています。
チーム医療フォーラムの理念「いのちの場から社会を良くする」には
そんな祈りに近い想いも込められています。
日野原先生はブーバーに深く傾倒されていたようです。
何ゆえ医師である日野原先生がブーバー思想を重視したのか?
クリスチャンだからという理由は不十分でしょう。
恐らく、「我とそれ」から「我と汝」への転換を導く対話は、
「いのちの場」としての医療現場でなされると思われていたのではないでしょうか?
私には、そう思えて仕方がないのです…。
2019年1月9日