『生きる力になる禅語』の出版記念イベントに参加してきました。
臨済宗円覚寺派 横田南嶺管長と圓融寺住職 阿純章のダブルトークショー&サイン会で、
東京都目黒区碑文谷にある圓融寺が会場でした。
圓融寺は都内でも有数の名刹で、満開の桜も格別でした。
何故、天台宗の御寺で、禅の話をと疑問に思われるかもしれませんが、
阿 純章 住職という人物の学識の広さと柔軟性に由来するとだけ解説しておきましょう。
イベントでは様々な気づきがありました。
書籍に書かれていない貴重なお話もたくさんなされました。
とても紹介し切れるものではありませんので、
今、心に残っている一つを紹介させていただきます。
禅師が兼務住職をされている文京区白山の龍雲院にまつわるエピソードです。
かつての龍雲院の住職が、禅の教えを乞うて来院した客人に
お茶を差し出したそうです。
お茶碗が空になる前に、お茶をどんどん注ぎ続けました。
客人が「もうお茶は結構ですから、禅のお話を聞かせてください」と願い出ると
住職はこう言い切ったそうです。
「お茶は、お茶碗が空になっていないと注ぐことは出来ない。
今のあなたの心は頭でっかちな知識が一杯で、空になっていないから、
そんな人には禅を教えることはできない」と。
見事な切り口!
しかし、痛快と感じると同時に
よくよく考えると、自分に言われているようでもありました。
書籍にはこんなエピソードが紹介されています。
あるとき何人かで托鉢をしている目の前で、
荷車から崩れ落ちた荷物を積み直している人がいたそうです。
その光景を見た一人の修行僧がかわいそうに思って手伝ってあげました。
その後、道場に帰ったら、突然、破門を言い渡されたそうです。
禅の世界は厳しく、
大きな無縁の慈悲を体得するまでは小さな慈悲で満足してはならないのです。
とはいえ、それだけでは私には理不尽な想いが残ってしまいます。
対談の中で、それが破門の理由ではないだろうと横田禅師が応えました。
その修行僧の心に「人助けをしてあげたんだ」という驕りが
見え隠れしたからに違いないと語られました。
納得です。
その後、丹田を意識して
そこを空にするようにと語られました。
それが出来るようになると、
空になった丹田にエネルギーが注がれ、
自ずと力が漲るようになると説明されました。
恐らく、修行の場面では鬼の形相で、
時に修行僧に拳骨も食らわす程なのでしょうが、
当日は清々しい笑顔が印象的でした。
禅の初歩中の初歩なのでしょうが、
漆黒の深い世界を少しだけ覗けたような気がしました。
当の横田禅師は、大学在学中より出家得度し、
「ひとすじ」に禅の修行をされてきた生粋の達人です。
非常に温和な印象でしたが、
「仏に会ったら、仏を殺せ」的な厳しさも持ち合わせていらっしゃるのだと思います。
実は、私と同じ歳でした。何とも、驚きです。
禅の世界に、俄然 興味が湧いてきました。
2019年4月10日