177.「命というものが、命として扱われていない」 MED Japan 2018 田坂広志氏 特別講演より

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社会医療人の星

「命というものが、命として扱われていない」

このフレーズは、昨年のMED Japan 2018特別講演における

田坂広志氏によるものです。

私が10年以上前にチーム医療フォーラムを設立し、

今日の活動を開始せざるを得なかった

止むに止まれぬ心情そのものです。

私のみならず、

今日の多くの人が抱いている義憤のようなものを

見事に表現していると思います。

それ以上に、

現代社会の問題すべてに通底する

深い洞察だと私は思っています。

この「命」の部分は、今日、様々なものに置き換えられるでしょう。

「善意」然り、「まごごろ」もそうです。

在るものが、そのままの状態で伝わらない、扱われない

価値あるものが、価値あるものとして通用しない

そんな歪んだ社会になっています。

皆さんも経験があるのではないでしょうか?

全くの善意からした行為が誤解され、

悪者にされてしまったことが…。

私は地域で各種のイベントを主催したりしていますが、

その際にこんなアドバイスを受けたことがあります。

「参加費は無料にしない方が良い」と。

一瞬、耳を疑いましたが、

今時、無料のイベントにすると

その場で何かを売りつけられるのではないかと疑われ、

参加が敬遠される傾向があるのだそうです。

「善意」が、「まごころ」が、

そのままでは人々に届かなくなってしまっているのです。

大変な世の中になってしまいました。

性悪説が前提になってしまっているのです。

アメリカを旅行した際に、それを強く感じました。

ある公的施設を見学する機会があったのですが、

入場時に厳重なセキュリティチェックを受けました。

銃社会のアメリカですから仕方のないことかもしれませんが、

その時間も人的資源も無駄に思えてなりませんでした。

まさに、取引コストの増大です。

取引コストとは、取引を進めるときの費用、

もしくは最も効率的な取引が実現されたときに発生する機会費用のことです。

1991年ノーベル経済学賞受賞のR.コースによって提唱されました。

Ronald H. Coase

Ronald H. Coase

彼は、経済システムにおける新素粒子群という表現もしています。

これは社会における摩擦のようなもので、

社会全体では膨大なロスとなります。

善意が善意として扱われない社会

まごころが、誠意が、正義が、熱意が、あらゆる価値あるものが、

そのままの姿で伝わらない、通用しない社会

そのような社会においては、

やがて善意も、まごころも、誠意も、正義も、熱意も、

全てが存在しなくなってしまうのかもしれません。

その場合、人間社会の取引コストは無限大になってしまいます。

そんな社会は虚無そのものです。

生きるに値しない社会です。

そんな世の中にしてはいけません。

そのために、

「命というものを 命として扱う」ことから始めていきましょう。

それを体感し、実践できる場が

MED Japanです。

まだ、間に合います。

是非ご参加ください。

宜しくお願いします。

2019年10月2日