世界保健機関(WHO)憲章には、
「健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、
単に疾病又は病弱が存在しないことではない」と定義されています。
肉体的側面のみならず、
精神的にも、社会的にも満たされた状態であることが強調されています。
日本では1951年に公布されている点を考慮すると、
その先見性に驚きを隠せません。
当時としては画期的だったと思います。
「ノーマライゼーション」の概念も重要でしょう。
ただ、それらだけでも不十分だと私は感じています。
超高齢社会の人生ラスト10年問題をテーマとしている私の視点での健康の定義は、
「(誰か、何かの)ために生きている状態」と提案します。
飲食店情報を扱うポータルサイトとして草分け的な存在である
㈱ぐるなびの創業者 滝 久男氏の著書に『貢献する気持ち』があります。
(詳しくは、第130話をどうぞ)
「人間は他者に貢献したいという本能を持っている」とすれば、
貢献心という本能を満たせなければ、
人間は本当の意味での健康にはなれないということになります。
「他のために生きている状態」を継続するには、
身も心も健全でなければならないことはいうまでもありません。
否、他者のために生きている状態であれば、
心身に多少の問題があったとしても構わないのだと思います。
人間とはそのような存在であると私は信じています。
健康観に話を戻しましょう。
元気な前期高齢者においては、
積極的に地域でのお世話や介護が必要な後期高齢者に貢献していただきたいと思います。
人のお世話をして身体を使うことは、先の筋肉減少のサルコペニアを防ぐことに繋がります。
貢献心という本能も満たされるはずです。
しかし、日本人には、「人様には迷惑をかけられない」という考えが根強くあるのも事実です。
世話を受ける側である後期高齢者に、
抵抗が生まれることが予想されます。
そんな時、前期高齢期に後期高齢者のお世話をしてきた訳ですから、
「あなたはそのお世話を受ける権利があるのだ」と納得していただけるのではないでしょうか。
しかしながら、
「そういう理屈があっても、真っ当な日本人というのは、迷惑をかけたくないと思うものだよ」
そんな反論が聞こえてきそうです。
確かにそうかもしれません。
日本人とはそういうものなのでしょう。
でもご安心ください。
だからこそ、私の健康観はものを言うのです。
いま、90歳になって初めて介護が必要な状態になった高齢者がいたとしましょう。
その方が他人からのお世話を固辞している場合、私はこう言って差し上げたいです。
「普通の方なら80歳ぐらいで今の状態になっていたところを、あなたが90歳の今まで健康でいられたのは何故かご存知でしょうか?」
「それは、あなたの健康のために、あなたのお世話を受け入れてくれた先輩たちのお陰です。」
「ですから、あなたは今、あなたの後輩たちが、あなたがそうであったと同じ様に、後輩たちが健康でいるために、彼らのお世話を受け入れるべきではないでしょうか。」
「それが出来たとき、あなたは後輩たちの役に立つ存在となり、もう一つの健康を手にすることが出来るのです。」
いかがでしょう?
「死ぬ瞬間」の著書で、死の受容プロセスを解明した精神科医:
キューブラー・ロスをご存知の方は多いでしょう。
しかし、彼女の最晩年を知る人は少ないと思います。
ある時、キューブラ―・ロスが亡くなったという噂が流れました。
実際には脳卒中で倒れ、介護が必要な体になっていたのです。
その最晩年の様子をある時、NHKのEテレ特別番組で私は偶然、目撃しました。
その番組のインタビューで彼女はこう語っていたのを鮮明に憶えています。
「私はこれまで愛を与えることを実践してきました。
しかし、神は私にライフレッスンの最終段階として、
愛を受け入れることを学ばせようとしているのです」と。
禅の高僧 良寛もこんな句を詠んでいます。
「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」
我々の人生は、表だけで済むものではないようです。
それが人間であり、そのような人間が織りなしているのが私たちの社会なのでしょう。
「健康とは、他の役に立っている状態である」
この新しい健康観が、この社会に深く浸透し、
「いのちを大切にする社会」となるよう、私は心から祈っています。
2020年8月19日