先日、某企業の幹部候補生数名を相手に講義をさせていただく機会を得ました。
この折角の機会に私が選んだテーマは、
「経世済民(けいせいさいみん)の医療」でした。
「世を經(おさ)め、民を濟(すく)う学問」としての
医療の可能性について話しました。
その発想の原点には、アマルティア・センの『経済学と倫理学』がありました。
そんな訳で、今週はその書評を書いてみようと思います。
本書は1986年4月4~6日にカルフォルニア大学バークレー校で行われた
ロイヤー講義の内容をまとめたものです。
講義録であるため、学術論文とは違って
分かりやすく書かれていると思います。
経済学には二つの起源があるといいます。
一方は「倫理学」に、他方は「工学」といってよいものに関連し、
互いにかなり異なっています。
ここでは「倫理学的アプローチ」と「工学的アプローチ」と表現してみます。
前者の伝統は、アリストテレスにまでさかのぼることが出来ます(←『ニコマコス倫理学』)。
また、経済学の祖といわれるアダム・スミスが生涯をかけて執筆したのが
『道徳感情論』であったことも忘れてはならないでしょう。
後者は、何が「人間にとっての善」を育むかとか、
「人はいかに生きるべきか」といった疑問や究極的な目的よりも、
実証的な問題を主眼とするものです。
今日の経済学は、前者を忘れ、後者が主流になっています。
人間を「自己利益の最大化」をめざす「経済人」としてしか捉えない
現代経済学の危うさをセン博士は指摘しています。
人間が「自己利益」を考えるのは、ごく自然なことです。
一方で、その社会から容認される範囲で考慮するのが大抵の場合であって(←忖度?)、
常に「最大化」のみを考えるわけではありません。
また、全員が「自己利益の最大化」のみを目指したからといって、
社会や組織全体に「最適な経済状況をもたらす」(パレート最適)とは限らないのです。
人間は、ホモ・エコノミクスの側面だけを有しているのではありません。
否、そんな人間は存在しないのです。
「工学的アプローチ」のために、
集計しにくい・数量化しにくい、人間本来の性向は無視されてきました。
経済学が経世済民の学からかけ離れてしまった原因でしょう。
1994年アメリカ経済学会会長。
ベンガルで生まれ、9歳の時に、200万人を超える餓死者を出した1943年のベンガル大飢饉でセンの通う小学校に飢餓で狂った人が入り込み衝撃を受ける。またこの頃、ヒンズー教徒とイスラム教徒の激しい抗争で多数の死者も出た。これらの記憶や、インドはなぜ貧しいのかという疑問から経済学者となる決心をしたと言われる。(Wikipedia)
写真をご覧ください。
彼の並々ならぬ意志力を感じるのは私だけではないでしょう。
インドに生まれ、イギリス、アメリカを渡り歩き、
学問を武器に戦ってきた人間の凄みを感じます。
ところで、セン博士といえば、ケイパビリティ*が有名です。
人間への、社会へのその温かな眼差しともいうべき
その概念の提唱は、彼のもつ崇高さの現れだと思います。
ケイパビリティ・アプローチの焦点は、最終的に実際に行ったことだけにあるのではなく、実際に行うことのできること(実際にその機会を利用するしないにかかわらず)にある。(この解説だけでは殆ど理解できないでしょうから、別の機会に必ず紹介します。)
今日の経済学の主流は
先の「工学的アプローチ」一辺倒になっていると書きました。
今や富める者たちがそのアドバンテージを最大限に発揮して
複雑怪奇な金融商品を生み出しています。
その一見エレガントな手法で以て、
多くの民から搾取しているように私には見えてなりません。
多くの経済学者も無意識下に
「工学的アプローチ」の潮流に加担しているのに対し、
セン博士ら一部の、(文字通り)心ある経済学者が峻立していることに希望を感じます。
さらに、セン博士や昨年のリチャード・セイラー博士に対して、
ノーベル経済学賞が授与されてきた事実にも、私は大いに勇気づけられています。
では、今日の医学はどうでしょうか?
そこにも、「倫理学的アプローチ」と「科学的アプローチ」の
二つの起源があるのだと思っています。
経済学同様、医学も出発点は、目の前の病める人を助けたいという
「倫理学的アプローチ」が出発点であったはずです。
医学の発展に「科学的アプローチ」が不可欠であることは言うまでもありません。
(この構図は、「アート」と「サイエンス」とも言い換えられるかもしれません。)
しかし、「科学的アプローチ」やエビデンス一辺倒になってしまうことは危険を伴います。
その意味で、私は、あるいは、チーム医療フォーラムは
セン博士的な立場を貫きたいと考えています。
最後に、本書の最後のセン博士の熱きメッセージを皆さんに贈ります。
ご自分の文脈に置き換えて噛み締めてみてください。