05.「24時間外科研修の日々」

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岡田晋吾 ままならぬ医者人生

さて、医者になって3か月もしないうちに、

自分の進路が産婦人科医から外科医に変わった私は、

無事に救急部の3か月間の研修生活が終わりました。

救急部での研修では、同期生同士で助け合うことを覚えました。

そして怖いお局看護師さん達とのつきあい方もうまくなってきました。

次の3か月は外科の研修です。

初めは胸部外科を回る予定でしたが、

第一外科に引っ張られたので腹部外科中心の医局です。

昼間は病棟の患者さんの診察をしたり、

外来で上の先生の診察介助についたりします。

もちろん手術の第3助手につくこともあります。

結構忙しい日々ですが、すべて初めてのことだし、

医者の仕事がしたくて仕方のない時期ですから楽しくて仕方がありません。

一生懸命働いて、さあ夜はみんなで遊びに行こうと思ったら、

先輩であるH先生の大腸がん手術症例の台帳作りのお手伝いです。

今では想像もできないでしょうが、そのころはパソコンなどもなく、

ワープロが出たばかりの頃です。

大学もまだ7期生が出たばかりで、大腸がん手術症例の台帳もない状態でした。

私を無理やり外科に引きずりこんだM講師とH先生は、

これから大腸がんが増えてくると感じていましたから、

大腸グループを作ろうとしていました。

その初めの子分が私と言うわけです。

H先生は熱心で優しい方ですが、人使いが荒く、

我々研修医がやっと仕事が終わったと思ったら、

病歴室に集められて過去の患者さんたちのカルテから

台帳作りをする手伝いをさせられていました。

棚のカルテを自分で見つけ、

厚いカルテをめくってH先生の必要とする項目を調べて埋めていくわけです。

電子カルテとかパソコンのある今の時代では経験できないことですね。

いつもH先生は「おまえらがんばったら美味しいものをおごってやる」とか

言っていましたが、正直なところ、H先生は質より量を重んじる先生ですから、

美味しいものをおごってもらったことはありませんでした。

でも、この台帳はこれから外科の医局にとって大切な財産になり、

多くの医局員の学会発表のデータのもとになったのです。

私も何度となくこの台帳をもとに学会発表をさせてもらいました。

やはり先輩のやることには意味があるんだなと後で思ったものでした。
さて、外科を回って2か月経ったある日、H先生に呼びとめられました。

「岡田、今度医局旅行があるんだけど…」(あれ、僕も行けるのか?)

「医局旅行の時に俺が頼まれていつも行っている病院の当直に代わりに行ってくれない?」

(甘かった!)「いや、まだ僕は医者になって半年もたたないんですけど…」

「大丈夫、お前は優秀だから…」という短いやり取りで行くことが決まりました。

医者になって少し自信ができ始めた時ですし、

お前は優秀だからと言われると、なんか本当にやれるような気がしたのも事実です。

しかし、大学でも一人で当直はしたことがないし、

本当に外の病院で当直できるのか不安もありました。

そこで1年上の先輩方にどんな感じか聞いてみることにしました。

するとその病院は200床くらいの病院で、

救急はなんでも引き受けてしまうすごく忙しい病院、

しかも内科も外科も、小児科もすべて見なければいけないとのことでした。

これも今の若い先生方には理解できないかも知れませんが、

昔の中小病院は救急患者の取り合いでした。

救急患者を確保するために、救急隊員さんたちに、

ご苦労様ですとジュースなど持たせたりする病院もありました。

そして当直医には断る権利はなく、何でも一応診て、

なるべく1泊でも入院させてくださいという指示が出されていました。
まあこういうシステムは悪い面も多々あったのですが、

地域の中核病院へ救急患者が集まらないようにする意味では良い面もあったわけです。

現在は中核病院に集中して、医師への負担が大きくなっていますからね。

患者さんやご家族もとてものんびりしていました。

小児科医でない医師が診ても、夜間に診てもらっただけでとても感謝して喜んでくれて、

丁寧にお礼を言って帰っていかれていました。

良い時代だったかも知れませんね。

しかし最初の一人当直、私はドキドキしながら出かけていきました。

さてどんな夜になったのでしょうか?

※掲載内容は連載当時(2013年2月)の内容です。