16.「ちょっとリードした外科医研修のスタート」

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岡田晋吾 ままならぬ医者人生

この原稿を書いているときに熊本の地震が起こりました。

こんなに大きな地震が九州で起きるとは思ってもいなかったです。

知り合いの医療関係者も被災されていましたが、

すぐに皆さん、地域のために患者さんのために動き始めて頑張っている姿をみると、す

ごいなあと頼もしく感じています。

そして自分が属した自衛隊の方々が活躍されているのを見ると

辞めた人間だけど誇らしく感じますね。

被災された方々ができるだけ早く元の生活に戻られることを心からお祈りいたします。

さて2年間の部隊勤務から専門研修として大学に戻りました。

住んでいるところはずっと所沢だったので通勤が楽になったわけです。

卒業後すぐの2年間の研修は内科や救急、麻酔科などいろいろな科を回りましたが、

これから2年間は外科だけの研修をすることになります。

卒業5年目、昭和病院でいろいろ手術をさせてもらったし、

重症の患者さんも診させてもらっていたので、

田舎の小さな駐屯地であまり手術できなかった同級生に比べると

一歩リードしている感じでした。

やはり外科医を選んだ以上、早く手術が上手になりたいし、

たくさんの症例を経験したいと思っていました。

と言っても手術の割り振りをする医局長の先生はとても紳士で、

えこひいきすることもなくみんなに平等に回していました。

となると同級生が手術するときに見に行って自分ならどうするかとか、

先輩の先生に怒られている姿を見てどこが悪かったのかなどをしっかり覚えて

少しでも役立てようとしていました。

よく言うと真面目な医者ですが、同級生たちにとってはうざい奴ですよね?

聞いたことはないけどきっと嫌な同級生だったでしょう。

手術もやるのですが、研究もやらなければいけない立場になっていました。

僕の与えられたテーマはがん細胞をラットの腎臓の被膜下に埋め込んでもらって、

抗がん剤の効果を見ましょうと言う内容でした。

もちろんこれは僕が考えたものではなく

指導してくれる講師の先生が与えてくれたものでした。

抗がん剤メーカーがお金と実験のほとんどをやってくれると言う美味しい研究です。

僕はがん患者さんの標本から癌の組織を取ってくるだけ…、

今考えると講師の先生は僕を研究者としても育てようとしてくれていたんでしょうね。

そのころで1000万円以上かかると言われた研究でした。

もしかしたら将来を嘱望されていたのかも知れませんね。

でも、僕自身はすっかり手術や患者を診る臨床が面白くて、

なんでこんなことやらなければいけないんだと思っておりました。

親の心子知らずですねえ。

とにかく臨床に関しては大学に戻ってくる前の2年間の豊富な症例経験が物を言って

けっこう優秀な若手の医者になっていました(笑)と言うことで、

バイト先はめんどくさいところに派遣されることが多くて、

いろいろな病院でまた新しく経験させてもらうと言うようなことで、

世の中には危ない先生や変わった医師がいると言うことにも気づくようになりました。

詳しくはさすがに書けませんが、

危ない先生はいると知ったことだけでも自分の医者人生にとっては大きなことでした。

使いやすい後輩と思われているのかバイトに行っている先輩から

夜中に彼女に会いたくなったから今から交代してくれと電話がかかってきたり、

かっこいい先輩が手術した患者さんから娘さんとお見合いしてほしいと家に招待された時に

なぜか一緒に連れていかれたりしました。

僕は関係ないので出てくるご馳走をがつがつ食べたり、

娘さんの特技のピアノ演奏を真面目な顔をして聞いていました。

そして結婚相手とされる先輩はどんな顔して聞いているのだろうかと横目で楽しんでいました。

結局先輩はスッチーとかにもよくもてていてその娘さんのことは断ったんですけどね。

でも僕はもう結婚していたのでちょっとうらやましく感じたものでした。

※掲載内容は連載当時(2016年5月)の内容です。