14.「自衛隊医官としての“充実”の日々」

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
SNSフォローボタン

フォローする

岡田晋吾 ままならぬ医者人生

さて防衛医大病院、自衛隊中央病院での2年間の研修医生活が終わり、

いよいよ部隊に派遣されました。

私の派遣先は群馬県の新町駐屯地です。

所沢から関越自動車道で1時間ちょっとで着くのと、

小さな部隊なのに医官が6人もいたので勤務は週に3日くらいの部隊勤務でした。

それ以外は小平の昭和病院で臨床研修をさせていただくという、

医官としては恵まれた待遇と言えます。

この部隊の良かったところは今はもう改定されているでしょうが、

私の行っていた頃は給料の僻地手当が5段階で4段階目くらいで、

とてもたくさんの手当てが出るということです。

きっと高速自動車道ができる前の規定がそのままだったんでしょうね。

私は第12衛生隊というところに所属する医官と言うことになりました。

そのころの階級は2尉、小さな部隊では上から数えて10人以内に入るくらいですから、

部隊で歩いていると隊員みなさんから敬礼されて返すと言う状態です。

手がつかれますね。

日ごろの仕事は普通に診療所での診察です。

と言っても、元々健康なことが条件の若い隊員さん達ですから、

大きな病気はありません。

風邪や痔、ヘルニア、怪我などを少し診るだけです。

部下の隊員さん達も、まだ医官への付き合い方に慣れていない時代でしたので

とても大事にされていました。

若かった私はけっこうわがままを言って昼から帰ったり、

手術だと言って休んだりして、

今思えばたいへん申し訳ないことしたと思っています。

診療以外で大事な仕事が二つありました。

一つは関連する部隊の入隊時の健康診断などに行かねばなりません。

そのころの12師団は松本(長野)、新発田(新潟)に部隊がありましたから、

電車で行って健康診断します。

そのころはバブルなので隊員が全く集まらず、

募集を担当する方がいろいろ口説いたり、

ヘリコプターに乗せたり、逃げないように? 自宅に泊めたりして

やっと集めた人たちを診るのです。

なかにはどう考えても無理だろうと言う方もおられて入隊不可にしようとすると、

連隊長や募集担当の方が来て自分たちが責任を持つからお願いしますと

頭を下げられることもありました。

心配してその後どうしているかと見ていましたが、

きちんと集団生活の中で厳しくしつけられて自衛隊員として活動しているのを知ると、

自衛隊ってすごい組織だなと感動したこともあります。

大事な仕事の二つ目は演習中の部隊についていって

演習場の片隅に救護所を開設することです。

部下の隊員たちとテントの中で寝起きをして、

怪我をしたとか具合が悪くなった隊員さんたちを診ます。

実際に演習している間は患者さんは来ませんから

ただただ暇をもてあましていました。

こういう演習場の前にはたいがい焼肉屋とか居酒屋があって、

そこでゆっくりしていると急病の患者さんが出ましたと呼びに来るというゆるい感じでした。

通常の演習中の食事は缶めしと呼んでいる

缶に入っている食事を温めて食べていることが多いのですが、

最後の日は隊員にお金を渡して近くのスーパーで肉やビールなど買ってきてもらって

救護所のみんなでバーベキュー大会、

さすがに自衛隊員なのであっという間に会場設営をやってくれます。

一般隊員たちとの宴会はいつも面白く楽しい時間でした。

演習場は新潟や富士にありました。

年度末になると高速料金も出なくなって

一般道をトラックで帰るのでとても時間がかかることもありましたが、

私が高速料金を出すから高速道で帰って

他の隊員たちよりとても早く帰ってしまって怒られたこともありました。

今ではこんないい加減な幹部自衛官(医官)はいないでしょうが、

私にとってはとてもいい思い出です。

外科医として手術もたくさんできる環境が確保できるのなら

そのまま自衛隊医官でいただろうなと思います。

残念ながら年に一回の射撃訓練はいつも下手のままでしたけど…。