「日本語が亡びるとき」とはとてもセンセーショナルなタイトルです。
一般的には、昨今の若者言葉の氾濫によって、
美しい日本語の伝統、文化が失われてしまうという次元で
捉えられることが多いと思います。
大衆消費社会におけるポピュリズム、日本文化の停滞は、
視聴率獲得に躍起となっているテレビの構成を見れば明らかでしょう。
感嘆語しか話さない若者がいたりして、日本語の地盤沈下は確実に進行しています。
しかし、本書の主題は全く違います。
そうした日本語が劣化していくという次元ではなく、
日本語そのものが
近い将来、この世から完全に消え去ってしまう可能性を指摘しているのです。
(2015年に文庫本も出版されました。)
<書き言葉>を通じてのみしか理解できないことがある。
<書き言葉>を通じてのみしか得られない快楽もあれば、感動もある。
一度<書き言葉>を知った人類が、優れた<書き言葉>、すなわち<読まれるべき言葉>を読みたいと思わなくなることはありえないからである。ことに<叡智を求める人>が<読まれるべき言葉>を読みたいと思わなくなることはありえないからである。そして、<叡智を求める人>はどの社会でもある割合では存在する。
著者の小説家ならではの文学愛が伝わってきます。
<文学価値>といえるでしょう。
ご存知のように『ハリー・ポッター』は
全世界的に空前のブームを巻き起こしました。
英語で書かれているという決定的な優位性のためです。
日本語で書かれた場合には有り得ないことです。
否、日本語のみならず、非英語で書かれた書物は
『ハリー・ポッター』にはどうやってもなれないのです。
書物には先の<文学価値>の他に、
<流通価値>というものが存在しているからです。
グローバリズムが進行すると優先されるのが<流通価値>です。
その流通のフィルターを通過できた書物だけが、
次なる<文学価値>の評価対象に初めてなれるのです。
『ハリー・ポッター』の成功は
<文学価値>に先んじて、<流通価値>を有していたが故なのです。
この<流通価値>の優位性は、グローバリゼーションの進行につれて
益々、高まっていくでしょう。
「グーテンベルク印刷機以来の革命的発明」であるインターネットが
決定打をもたらすのです。
これは、「英語の世紀に入った」ことと同義語です。
平たく表現すれば、英語で書かれたもの以外は<流通価値>を持たなくなるということなのです。
先の<叡智を求める人>が、<流通価値>を持つ<普遍語>の英語に惹かれるのは当然の成り行きでしょう。
<叡智を求める人>ほど<普遍語>に惹かれてゆくとすれば、たとえ<普遍語>を書けない人でも、<叡智を求める人>ほど<普遍語>を読もうとするようになる。
(書くことに比べて、読むことははるかに楽なので)
<叡智を求める人>は、自分が読んでほしい読者に読んでもらえないので、ますます<国語>で書こうとは思わなくなる。その結果<国語>で書かれたものはさらにつまらなくなる。… かくして悪循環が始まり、<叡智を求める人>にとって、英語以外の言葉は、<読まれるべき言葉>としての価値を徐々に失っていく。
2008年当時からつい最近まで、
著者が指摘する国語消滅の危惧を私は払拭できずにいました。
しかし、世界的なコロナ禍を経験した今、
それは杞憂として乗り越えることが出来るようになりました。
コロナ禍によって私の中の グローバリズム > ローカリズム の不等式は
完全に逆転したのです。
グローバリズムこそが正義と思い込んでいました。
その危うさを今回のコロナ禍から学んだのです。
そして、構造主義の開祖、レヴィ=ストロースの皮肉に満ちた言葉を思い出しました。
「人類はいまや、本式に単一栽培を開始しようとしている。まるで砂糖大根のように、文明を大量生産する準備をしているのである。人類の常食は砂糖大根の料理ばかり、ということになるであろう」
コロナ禍を経験した今、地域コミュニティでの充足した生き方を想うようになりました。
ドイツの大哲学者 イマヌエル・カントは
自身が大学教授を勤めるケーニヒスベルクの街から生涯出ることはなかったといいます。
ローカルに生きながらも、認識論における「コペルニクス的転回」をもたらし、
歴史的な足跡を遺したのです。
<普遍語>としての英語は今後、益々盛んになるでしょう。
同時に<現地語>(国語)も決して廃れることはないのです。
「日本語は亡びない」と今なら断言できます。
<普遍語>/<現地語>、<グローバリズム>/<ローカリズム>の二重構造が
この世界を、ポストコロナ社会を豊かにしていくのでしょう。
再度、レヴィ=ストロースの言葉で締めくくりたいと思います。
「最高の価値とは地球の豊かさであり、豊かさとはバラエティなのである」
(2020年5月27日)