98. 弁慶の人知を超えた智慧 -能「安宅」より

社会医療人の星

先日、能「安宅(あたか)」を鑑賞してきました。

能の音楽的魅力、舞踊的な面白さ、展開の緊迫感など、

盛りだくさんの内容で、初心者の私も大満足でした。

中でも弁慶の機転の利いた咄嗟の対応に心を動かされました。

今週は、そんな弁慶の深い智慧をお伝えしたいと思います。

会場はGINZA SIX地下3階の

二十五世観世左近記念観世能楽堂です。

銀座の喧騒もここには届くこともなく、

静寂に満ちた古の空間が存在しています。

ここに長時間身を置くだけで、

魂がリセットされるような気が致します。

その日は、他の演目も併せ、5時間半の長丁場でしたので、

たっぷりと心の充電をすることが出来ました。

さて、物語のあらすじですが、

兄頼朝と不和となった義経主従が奥州に落ちる途中、

安宅(あたか)の関で関守富樫某にとめられ

弁慶がいつわりの勧進帳を読んで難を逃れた逸話を描いた演目です。

現在の石川県小松市安宅町が舞台であったとされます。

やはり見せ場は、弁慶が見せかけの勧進帳を朗々と読み上げるシーンでしょう。

能ならではの見せ場です。

その気迫に、富樫は通行を許しますが、強力(ごうりき)に変装した義経を見咎めます。

その時、弁慶は機転を利かせて「お前のために疑われた」と義経を責め、

金剛杖で打ち据えます。

その迫力に押された富樫は、再び通行を許すことになります。

国立能楽堂提供:『観世座能狂言写生帖』より「安宅」

国立能楽堂提供:『観世座能狂言写生帖』より「安宅」

私が感動したのはその先です。

危機を脱した一行が安全な場所で休息を取るのですが、

弁慶が主人である義経に謝罪するシーンがあります。

弁慶の謝罪に対する義経の返答が秀逸なのです。

「さては悪しくも心得ぬと存ず、いかに弁慶、さても只今の機転更に凡慮より為す業にあらず、ただ天の御加護とこそ、思へ、関の者ども我を怪しめ、生涯かぎりありつる所に、とかくの是非を問答はずして、ただ真の下人の如く、散々に打って我を助くる、これ弁慶が謀計にあらず八幡の御託宣かと思へば、忝(かたじけ)なくぞ覚ゆる。」
(訳)
さては誤解しているようだな。のう弁慶。
それにしても先ほどの機転はまったく並の人間の考え出せるやり方ではない。
ただ天のご加護だと思うぞ。
関所の者どもが私を怪しんで、もはやこれまでと思ったところに、
あれこれと枝葉末節の義理にとらわれずに、
ただ本当の下僕のように、散々に打って私を助けたのは、
これは弁慶個人の計略ではない。
八幡大菩薩の、神慮のたまものと思えば、なんともありがたく思われる。
*対訳でたのしむ*安宅』(檜書店)より引用

義経のこの解釈が本当に素晴らしく、

そんな人知を超えた行動をとった弁慶に、智慧あるリーダーのあるべき姿を見出しました。

主人を命がけで守ろうとする弁慶の覚悟に惚れ惚れすると同時に、

このような深い知恵の源泉は、表層的な個人の意識には無いのだと感じました。

真のリーダーは、覚悟を定めることで、

時に、人知を超えた智慧が授けられるのだと直感しました。

突然に沸き起こるのだと思います。

イエス・キリストのこの言葉も同様です。

姦淫の罪で石打ちの刑に処せられんとする女性と聴衆を前に

汝らの中、罪なき者まづ石を擲て」と諭しました(ヨハネの福音書8:3~7)。

人知を超えた深いふかい智慧だと思います。

これまでの人類史には、たくさんの深い智慧が刻まれていますし、

これからも、そのような智慧が正しき魂の元にはもたらされるのでしょう。

その時は不意に訪れます。

どのような時であっても、

深い智慧がもたらされるような人間になりたいものです。