01.「ままならぬ医者人生の始まり」

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岡田晋吾 ままならぬ医者人生

好きなことを書いていいというので、
いつ終わるともしれない連載をお引き受けしました。
みなさん、お付き合いお願いします。

始めるにあたって秋山先生からの注文は……
昔、「ビジネスマンの父から息子への30通の手紙」という
書籍がベストセラーになりました。
先生にお願いしたいのは、医師である父親から医学生である息子さんへの、
次代の医療を託すためのメッセージ集です…… ということでした。
ついに先生はチーム医療を世の中に広げるだけでは飽き足らず、
出版で儲けようとしているのかと思いましたが、
面白そうなので書き始めました。

さて題名を何にしようかと自分の医者人生を振り返ってみると、
本当に思い通りにいかなかった人生だということです。
私のことをよく知っている人々は、
「先生、何言っているの?、先生ほど先を見る目がある先生はいない」
「先生がやることは何でもうまくいっている」というでしょう。
でもけっしてそうではないのです。

今は開業医をやっていますが、
医学部を卒業するときに開業医になろうなんて1%も
思っていなかったのは事実です。
その時には末は教授か病院長、悪くても診療科部長、
もしかしたらテレビにひっぱりだこのスーパードクター、
またはノーベル賞候補なんて勝手に思っていたものです。
それが1%も望んでいなかった開業医ですから
まさにままならぬ人生なんです。

それではその人生の振り返りにつきあってください。
バブル時代の医者の人生がどうだったかも赤裸々に書くかもしれません。
打ち切りになったらそれはどこからか圧力がかかったと勝手に想像してください。

話は1985年ごろ大学6年の初めごろです。
防衛医科大学は全寮制であり、夜はまったく暇でした。
時間はたっぷりあるのに遊べなかったので、
たまたま野球の試合の助っ人として知り合った先生たちに誘われて、
基礎病理の教室に行くようになりました。

毎夜遊びに行っては若手の研究者や先輩たちと話をしていました。
そのうち顕微鏡を見るようになり、
病理解剖が入ると助手を務めるようになりました。
学生ながらいろいろな患者さんの病歴を知って
解剖の結果を見ることは勉強というよりも
なんとなく医者になったような気分でうれしかったのを覚えています。

6年になると臨床病理をやった方がいいと言われ、
外科材料を夜の間に見てレポートを書いて、
翌日の昼に直してもらったものを清書して、
私の署名を書いたレポートを臨床の場に出していました。
ただ病理医になることは望みませんでした。

病理医は顕微鏡が見れるだけでなく、
すべての科の臨床経過も理解できなければいけません。
そして最終診断をする立場であり、孤独で責任は重い立場です。
自分の性格から病理医は無理だと完全に思いました。
でもこの病理での経験は私の医者人生に結果的には大きな影響を与えます。

私を指導してくれた臨床病理医は素晴らしい先生で、
臨床の先生から学生にレポートを書かせている
という苦情などからも、守ってくれていました。
そして1年勉強した証として学会発表をということで、
学生の身分でありながら医者のふりをして、
学校長の許可を得て婦人科病理の学会に行かせてくれました。

学会に行ったことも見たこともない私は、
婦人科の助教授に白衣を持っていくのかと聞いたのを覚えています。
佐賀へ行っていよいよ学会場での発表の時、
味わったことのない緊張感でしたが、
ひとつ前の沖縄の先生がありえないくらい震えていたのを見て安心し、
無事に発表が終わりました。

この縁で産婦人科教室に入局することを表明しました。
でも私の産婦人科医姿を見たことがある方はいないでしょう。

まさにままならぬ医者人生の始まりなのです。

※掲載内容は連載当時(2012年2月)の内容です。