大型連休を利用して、積読状態であった書籍を引っ張り出して読んでみました。
連休とはいえ、うち4日間は勤務、
前半は執筆中の原稿の修正、脱稿(9万字超)に追われましたので、
読書は4冊のみでした。
読後にいろいろ考えさせられた1冊を紹介します。
哲学者 鷲田清一さんの『「待つ」ということ』です。
待たなくてよい社会になった。
待つことができない社会になった。
冒頭のこの2文だけでも、いろんなことが想起されます。
連休中に読んだ『インフルエンサー』に、
意志の強さはスキルであり、自制心の訓練は可能であると書かれていました(第5章)。
意志の強い人は、短期的な誘惑を避けるスキル(関心をそらす方法など)を
身に付けているに過ぎないといいます。
意志力は訓練次第であるという考えに賛成です。
井上靖さんの『孔子』の一節を思い出しました。
孔子は仕官のための長年の旅の途中、
しばし水にありつけない時があったそうです。
そんな時、泉を見つけると、弟子たちが我先にと水場に向かう中、
孔子は最後に水を飲むようにと自ら課していたそうです。
生物である以上、水を摂取しない訳には行かないのですが、
最後まで待つことによって、自身を鍛錬していたのです。
現代生活においては、社会全体が便利になり過ぎて、
待つことが極端に排除されています。
コンビニのレジでも、順番待ちの列が出来ようものなら
すかさず店員さんが仕事の手を止めて
レジに回ってくれます。
そこまでしなくてもと、初めは思うのですが、
そのうち、それに慣らされてくると
数分のレジ待ちも苦痛になってしまうから不思議です。
冒頭の表現のように
待たなくてよくなったが故に、
待つことができない私たちになってしまったのでしょう。
孔子の自戒とは真逆です。
これでは、意志力は養成されないでしょうし、
社会全体が不寛容になってしまいます。
「待つ」ことを排除した結果、
私たち個人も、その集合体である社会も
大切なものを失いつつあるようです。
本文は、哲学者らしい緻密かつ深い指摘のみならず、
たおやかな文章に溢れています(特に前半)。
19節に分かれていますので、
小出しに噛みしめながら読んでいっても良いと思います。
ここまでの論調は初めの数節で、
著者の「待つ」はさらに深い次元に及んでいきます。
太宰治の掌編『待つ』の駅で待つ二十歳の女性が紹介されます。
だれかを待っていうのに、そのだれとも逢いたくない。だれかに声をかけられようものなら、竦むどころか、身震いしてしまう。いや、撥ねつけすらするだろう。でも、「忘れないでください」、わたしを憶えてください、わたしを見かけてください……。
はじめから目的語を欠いたまま発動する<待つ>を表現しています。
何とも意味深な<待つ>です。
ただ、このような心情は、私にも確実にあると感じます。
多くの現代人も抱いているような気がします。
本書において最終的に著者は、
「待つことの放棄が<待つ>の最後のかたちである」と表現しています。
残念ながら、私はそこまでの理解には至りませんでした。
ただ、「待つこと」と祈りが非常に深い関係にあると直感しました。
目的語を欠いた祈り、放棄した祈りこそ、祈りの本質ではないかと思うのです。
そう考えると、<待つ>の最後のかたち に少しだけ近づけたような気がしました。
皆さんは、いかがでしょう?
(興味を持たれた方は実際に読んでみて下さい。)
2019年5月8日