数年前、ダライ・ラマ14世が来日講演した際、参加の女性から質問を受けました。
「毎日毎日、世界中の紛争や凶悪事件の報道が後を絶ちません。子供とテレビニュースを見ていると、その事件について子供から質問されることがあります。いつも答えに窮してしまいますが、子供にどんなふうに答えたら良いのでしょう?」という内容でした。
ダライ・ラマは
「そういう悲しい事件から子供は、人間は、慈悲心を養うことが出来ます。人間の心の成長を信じて、話をしてみては…」と返答していました。
さらに、ニュース報道には悪い事件ばかりが取り上げられる現実に
「誰かが誰かのために行った善い行いはニュースになり難いという現実もあります。それはどうしてか。それは、この社会が実は善きことが殆どで悪しきことの少ないことの証左だから…」というのです。
善きことが当たり前の世の中、人々にとって
善き行いはある意味、当たり前であってニュース性が無いというのです。
人々にショックを与え、慈悲心を生み出し、覚醒させるのがバッド・ニュースなのです。
究極の宗教家ならではの機転の利いたポジティブな発想だと思います。
(そもそも論としては、そんなニュース報道の在り方自体が問題ではありますが…)
将来、毎日のニュースでグッド・ニュースばかりが報道された場合に思い出してください。
そんな社会は、もしかしたら社会から慈悲心が消え、人間同士の信頼が欠乏した
枯れた社会かもしれません。
さて、私たちの社会にはどうして悲しい出来事が多いのでしょう。
戦争が全く無かった時代は無いと言われます。
常に世界各地で戦争が起きてきたのです。
世の中には不条理なことがたくさんあります。
多くの宗教家をはじめ、たくさんの心ある為政者たちも
そうした不条理との戦いに挑んできました。
若い頃の私は、理想社会とは
そうした一切の不条理が解消された世界をイメージしてきました。
勧善懲悪を超えた、完全調和、絶対平和の世界です。
しかし今は、そんな社会はあり得ないと思っています。
将来、私たちの社会がどんなに進歩しようとも
そこには不条理や改善すべきものが残るのだと思います。
否、不条理および改善点を見出せると言った方が正確かもしれません。
私たちは、より良き社会をつくり続けるしかないのでしょう。
第227話で紹介したカール・ポパーの思想の核心は
「反証可能性」(間違いが証明される可能性)の概念だと思います。
ポパーは「私たちは間違っているかもしれない」という態度を常に取ります。
私たち人類がグレート・ジャーニーの途上で、
営々と築いてきた外的足場は素晴らしいものです。
しかし、それらには間違いが付き物であり、
常に改善の余地が残されているのです。
人間が究極の真理に辿り着くことは永久に無いと言い切ります。
そうすると表面的な理解では、虚無主義に陥ってしまうかもしれません。
が、ポパーの思想はその真逆です。
人間のつくる社会は
あらゆる知に批判的な検討を加え、議論を重ねることで、
世界をより良きものへと発展させられるのです。
「批判的合理主義」の態度です。
先日来、ポパーの思想に触発され思索を深めていった際に、
先のダライ・ラマ14世のエピソードを思い出しました。
「清濁併せ呑む」世界かもしれません。
今日、悲しい出来事のない日はありません。
さらに、コロナ禍によって不条理は社会のあちらこちらで噴出しています。
そうしたニュースに対峙する際に、
私たちはそこから目を背けることなく正対し、
より深い慈悲心を養い育て、
より良き社会をつくるために立ち上がるべきなのでしょう。
『より良き世界を求めて』
人類の未来は、その一点にかかっているような気がします。
2020年9月30日