18.「自分がどこにいくのか、どういう医者人生を歩むのか」

岡田晋吾 ままならぬ医者人生

大学にもどって約1年半、外科医として手術もたくさんこなし、

それなりに自信を持ち始めた私でした。

その一方であと半年したらまたどこかに移動になって、

もう二度と大学に戻ってこられないかも知れません。

いろいろ考える時期でもありました。

まわりに聞いてもそれぞれに悩んでいました。

子供も二人生まれていましたしね。

そう言えば長男が生まれるときは

ちょうど美人医局秘書と二人で美味しい焼き肉を食べている時にポケベルが鳴り、

家に電話したら嫁さんから陣痛の間隔を測っていたらそろそろだから迎えに来てとのこと、

秘書さんと二人で迎えに行って大学病院の病棟に送り届けて、

また二人で焼き肉屋に戻り彼女を家に送り届けて家で寝ていたら、

病棟ナースから夜中に電話が鳴って無事に男の子が生まれましたと…。

寝ぼけていてそのまままた寝ちゃいました。

こういう経過なのでそれ以来

『お父さんは私が陣痛で苦しんでいる時に他の女性と一緒に美味しいものを食べていた』となじられ続けています。

嫁さんは元産科のナース

、誰よりも出産を知っているからお任せしていたんだけどねー。

次の日病室に七人の小人のぬいぐるみを持っていったら機嫌を直してくれました。

二人目の長女が生まれるときはちょうど大学で当直中、

病院抜け出して迎えに行って無事に生まれました。

ただ生まれてからしばらく嘔吐を繰り返しており、

先に母親だけ退院、毎日搾った母乳を私が病棟に届けていました。

もしかしたら幽門狭窄で手術になるかもしれないと言われ、

母親である嫁さんが泣いている姿を見ても

まだペーペーの医者である私はオロオロするばかりでした。

結局3週間ほどしたら落ちついて無事退院、

二人ともすくすく育ち自慢の子供たちになっています。

僕が嫁さんにあげることができた唯一のプレゼントが子供たちだなあ。

嫁さんには子育てに参加したことがないあなたが

子育てをしたと外で言ってはいけないと言われていますけどね。

さて子供たちも生まれた以上、

自分がどこにいくのか、どういう医者人生を歩むのか考えていました。

自衛隊に残ると一生全国転勤人生、子供たちの教育は大丈夫なのだろうか?

本当に外科医として一人前になれるのだろうかと不安もありました。

ある日、M講師と直腸がんの術後の病理標本の整理をしていたときに電話がかかってきました。

どこからかなあと思っていたら大学にもどる前に研修を受けていた昭和病院の外科部長の先生からでした。

外科の医局員の枠がひとつ空いた、

普通は東大から取るけど岡田が来たいというなら特別に君を取るけどどうする? という思ってもいない電話でした。

今なら大きな病院に他大学の先生が就職することは珍しくないけど

その頃は医局制度がしっかりしており、なかなかとってもらえない時代です。

一瞬すぐにOKと答えようかと思いましたがすぐそばには卒業以来お世話になっているM講師がおられます。

少し考えさせてほしいと言って電話を切りました。

横で聞いていたM講師もなにやら事情を察したようでした。

もちろん正直にお話をしました。

M講師は自分には人事権がない

(私たちは自衛官なので医局に属していても医局には人事権はないんです)、

だから必ず大学に戻してやるとも約束できない、

おまえ自身がよく考えて決めればいい、

どういう選択をしても応援してくれるという話でした。

ありがたいですね。

さて本当に悩むところです。

良い病院なのはよく知っているけどお客さんで行くのと職員となって同僚として働くというのはまた違います。

しかも東大の人たちと一緒にやれるのだろうか、

やっぱり自分の大学の先輩や後輩と一緒のほうがいいんじゃないか、

将来教授になることが確実なM講師も期待をかけてくれているし

大学を辞めていってすぐにダメになったという例もいくつか聞いていました。

さて結果は…、次回をお楽しみにしてください。

と言っても私の履歴を知っていればわかりますね。