今年は辰年です。
武者小路実篤の言葉に、
『龍となれ 雲自ずと来たる』という言葉があります。
元気のない日本を、再び元気にするには、
私たちひとりひとりが、高みに向かって昇っていく龍のような勢いをもって、
ひたすら突き進むことも必要なのかもしれません。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、今回は、『死と音楽』の第2回目です。
前回は、自分が死んだときに、
お葬式の代わりにかけてもらいたいと思っている曲、
マーラーの交響曲第9番をご紹介しました。
私だけではなく、自分が死んだとき、
クラシック音楽を望む人も少なくないでしょう。
では、そんなとき、
どんな音楽を聴かせてほしいと思っている人が多いのでしょうか?
クラシック音楽のなかで、最も多くの人が望むのが、
恐らく、山中先生が06号の『ツ・ナ・ガ・ル』で取り上げられた
モーツァルトのレクイエムでしょう。
レクイエムとは、死者のためのミサのことです。
とくに、モーツァルトのレクイエムは、
モーツァルト自身が死の直前まで書き続けた、いわく付きの名作。
あのショパンも、自分の葬儀にモーツァルトのレクイエムを望んだといわれていますし、
ケネディ大統領の葬儀でも演奏されています。
深い悲しみをたたえた『入祭唱 Introitus – Requiem aeternam』、
澄み渡るような美しさの『思い出したまえ、慈悲深きイエスよ Recordare』、
モーツァルトの絶筆となった、すすり泣くような『涙の日 Lacrimosa』
など、深く心を動かされる旋律にあふれています。
女性は、同じレクイエムでも、フォーレのレクイエムなどを望む方も多いようです。
フォーレのレクイエムの結びには、『楽園にて In paradisum』という、
文字通り天国的な、とても美しい曲が添えられています。
ここで、いったん話は逸れますが、
多くのレクイエムは、ラテン語の典礼文をもとに作曲されています。
つまり、同じ歌詞に、モーツァルト、フォーレ以外にも、
ジル、カンプラ、ケルビーニ、ベルリオーズ、ウェルディ、ドヴォルジャークなど、
さまざまな作曲家が作曲しているんです。
例えば、『涙そうそう』の歌詞に、
桑田佳祐さんがメロディーを付けたらどんな曲になるか…
な〜んてことは、まず99.99%あり得ないと思いますが、
レクイエムでは、作曲家による時代を超えた直接対決も成立してしまうわけです。
ちょっと興味深くありませんか?
さて、クラシック音楽のなかには、レクイエムという形式を取らなくても、
誰かの死を悼んで作曲されたものや、
自分の死を見据えて作曲された作品も多く残されています。
ブルックナーの交響曲第7番の第2楽章は、
ワーグナーの死を悼んで作曲されたといわれています。
また、ベルクのヴァイオリン協奏曲には、
「ある天使の思い出に」という言葉が書き添えられており、
19歳で急逝した少女への哀悼の思いが込められているといわれています。
リヒャルト・シュトラウスが最晩年に作曲したメタモルフォ|ゼンや、
『四つの最後の歌』などの作品には、自己の老いや死への思いが静かに綴られています。
こうした作品を、家族や知人との別れを惜しむセレモニーにと
考える方もいるかもしれませんね。
また、こうした作品から、私たちは、死を目前にした人の複雑な思い、
別れを惜しむ人々の思いに接することができると思います。
ところで、以前、とても趣味のいい方に出会ったことがあります。
自分の葬儀には、フランクのヴァイオリン・ソナタを聴かせてほしいというのです。
この曲の、どこか解き放たれたような、自由で自然なふんいき。
確かに、こんな音楽を聴いていたら、
それこそ、『千の風になって』はるか遠くまで飛んでいけそうな気がします。
いくつになっても、このように自由な心を持って生きていけたら、
どんなにすばらしいでしょうね。
今回は、死と関連するクラシック音楽をいくつかご紹介してみました。
死とのかかわり、死への思いは、人によってさまざま。
ぜひ、ひとつひとつの作品に込められた思いを受け止めてみてください。
次回は、『甘い誘惑』と題して、ワインにまつわる甘〜い話題をお送りします。
※掲載内容は連載当時(2012年2月)の内容です。